人と人との関わりについて思う事。

コロナウイルスが少し落ち着いて、日常生活が戻りつつあったアメリカに今度は抗議運動の嵐が吹いています。平和な抗議運動だけではなく、暴動、略奪行為が全米で見られ、大都市圏の多くは夜間外出禁止令が発令されました。

わたしが住むサンフランシスコも例外ではなく、というよりサンフランシスコ、いう比較的大きめの主語ではなく、近所でも大規模な略奪行為があり、うちの下のテナントとスタバも被害に遭いました。
大勢の人が移動しながら騒ぐ音、ガラスの割れる音、何かを叩く音がして恐る恐るエントランスに降りるとセキュリティが血相変えて物陰から出てきて「外から見えるところに出るな!」と。外を見ると、誰かがゴミ箱に火を放っていて、火柱が上がっているところでした。
そのまま屋上に行き何人かの住民と一緒に通りを見下ろすと、何かが壊される音、叫び声、怒号、消防車、パトカーの音。足が震えました。怖かったです。

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実は、Twitterでこんなメッセージを頂戴しました。
個別にお返事しようかと思いましたが、非常に有意義なトピックになると思いましたのでブログでお返事させていただきます。

わたしは今回、自分の家の至近距離で暴動、略奪行為が行われているのを自分の目で見ました。Twitterではこの行為をフラストレーションによるものだと擁護する声もありましたが、
全く賛同できません。
そしてこの行為を行う、多くの人の人は特定の人種でした。

ですがそれを見たわたしの彼らに対する感覚は変わりません。

「悪事に人種は絶対に関係ない」

抑圧された人が全て悪事を働く。それはやむを得ない。だから同情する。
それは同じ目線で見ていないどころか、凄まじい偏見だと思います。

抑圧されて生きていたほとんど全ての人が真面目に生きています。
しかも、必死に、何か誤解されないように、神経を使いながら一生懸命生きているのです。

それを「抑圧されているから悪事を働くのはやむを得ない」とは何事でしょうか。

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わたしが目の前で起こる悪事を見ても「悪事に人種は関係ない」と断言するのには理由があります。それは自分の身近、生活圏に、真面目に生きている人たちがいるからです。
私たちは常に対等であり、同じ目線に立っています。だからこそ、困ったときはすぐ助けてあげたい。

わたしはこの人間関係の距離感を「隣人」への感覚と同じものだと考えています。

隣の家の人は友達ではありません。あくまで隣人であり、たまにはイラッとさせられ、ため息をつくこともあるでしょう。でも、毎朝きちんと挨拶をし、良好な関係を築こうとします。そして困っているときはすぐさま助けの手を差し伸べます。

それが快適な生活を送るために必要なことだからです。

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わたしはこの国でアジア移民というマイノリティとして暮らしています。
わたしがこれまで、そしてこの先接する誰かは、今まで一度も日本人と接したことがないかもしれません。わたしがその人にとって初めて接する日本人であれば、日本人のイメージは全てわたしの行動に左右されてしまいます。
わたしのイメージが悪くなれば、日本人へのイメージ全体が悪くなりかねない。
だから、無理のない範囲で「いい隣人」であることを常に心がけています。

もし相手が、次に日本人、日本の何かに触れるとき
「前に日本人がいたけど」と、楽しい思い出話をしてもらえるように
もし相手が、他の誰かが好き嫌いの範疇を超えた日本人、日本の何かの悪口、アジア人への何かを言っている人を見た時
「いやそれは間違ってるよ」と言ってもらえるように。

今わたしににできるのは、この後者の
「いやそれは間違っているよ」
と、他の誰かに伝えることだけ、だと思っています。
しかも主語を大きくせず半径1m以内の「隣人の話」だけで良いのです。
(ここでいう隣人、はもちろん比喩です)

なぜなら私たちは当事者ではありません。
当事者(両方とも)ではないからこそ、根幹を完全には理解できません。
隣人は友達ではありません。でも真面目で愛すべき隣人だ、ということはよく知っています。だから伝えられるのです。「それは間違っている」と。

この小さな「それは間違っている」と指摘する行動は集団で行うものではありません。
でも、個々が行う、その積み重ねは大きな支持につながると、わたしは考えます。