ラブラドールを飼った人は必ず通過すると思うのですがそのあまりの鉄砲玉っぷりに
「うちの犬はもしかして頭のネジが一本足りないのではないか」
「ちょっとおかしい子なのではないか」「なぜこんな爆弾を飼ってしまったのか」
と悩む時期があると思います。
イヌが死んだあとに書いた記事にこう書きました。
当時、毎朝やんちゃ極まりないうちのイヌに手を焼きながら散歩している公園で、同じ時間に散歩している女性とゴールデンレトリバーがいました。
女性は岡崎京子さんの描いた絵を完全に実写にしたようなスレンダーでオシャレな人でイヌの名前はしんちゃん。いつもニコニコしてのんびりしていて鉄砲玉(うちのイヌ)にもいつも優しくとてもおりこうさん。毎朝見かける二人(一人と一匹)の姿はとても優雅でいつかわたしもああなりたいなとうらやましく憧れでした。
しばらくしてしんちゃんは15歳で亡くなり飼い主の女性はしんちゃんのリードを手に持ち、一人で、同じ時間にお散歩するようになりました。
見る人によってはさみしくて悲しい光景のはずなのですが、それでもわたしは彼女にあこがれたのです。
「うちのイヌが死んだら必ずあれをやってあげよう」
ここでよく遊んだな、花壇は今年もきれいだな写真撮ってもらったな、いつも大きい声で名前よんでるから知らない人にまで名前覚えられちゃってさ。
夏はちょっと目を離すと池に飛び込んじゃったなヌルヌルになって汚かったし家に帰って洗ってたらオタマジャクシが…
日々最高におもしろいイヌだったな、超おもしろい
と、思っているのですが涙が止まらない。
ドッグランを少し眺め、駐車場を見下ろせる売店のベンチでお茶を買って飲みながら声をあげて泣いた。悲しいんじゃない。うまく言い表せない気持ち。
お天気が良くて暖かくて最高の日、こんな散歩日和にイヌがいないなんて
なんてつまらないんだろう。
でも連れてきて(リードと首輪だけど)よかった。
普段から(もちろんアメリカでも)イヌと歩いたところはちょっとした風景にイヌがいた景色を重ねて懐かしく思うことが頻繁にある。リードを持ってるとそれがより鮮明に蘇るというか散歩感が強いというか、イヌがすぐそばにいるような感というか…。
今となってはしんちゃんの飼い主さんがどういう気持で一人お散歩をしていたのか知る由もないんだけど、これを毎朝できるのはなかなか幸せなことなんじゃないかと思った。
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私の平成の思い出はイヌ。犬飼って、毎日散歩して、結婚して犬連れてアメリカに引っ越して来て、看取った。他のどんな思い出よりも圧倒的に濃い。
だから書きたかったの。
平成最後の投稿は読み手のことなんか全く考えてない自分の好きなことだけを
イヌのことを。