アメリカ生活が5年目となり、わたしは45歳になり、犬が死んで1年経った。

毎年誕生日にブログを書いていたので、今年も何か書こうと思うものの全く筆が進まない。ブログに飽きたわけでも、時間がないわけでもなかった。
自分の心境を上手く言語化できなかったというのが最も適切な「いいわけ」になる。

9月の終わりに45歳になった。
10月の中頃にアメリカに来て5年目に突入した。
そして今週末でイヌが死んで1年になる。

5年は節目だとは思うが感慨深いとかそういうのはない。
「長いようで短い」と何かの期間を表すときによく言うが、長くも感じないし短くも感じない。語学力の向上はびっくりするほどないが、有難いことにカルチャーギャップや人種差別のようなモノにさらされて戸惑うこともなかった。どんなに悩んだり落ち込んだりしても必ず時間が解決してくれるし、泣いたり笑ったりしつつも日々淡々と過ごして4年が経った。

特にこの一年はできるだけ淡々と過ごすことだけを心がけている。

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唐突だがうちには子供がいない。この先、子供がいる人生は無く、また、子供のいない人生を選択したのでもない。今まで深く考えることは本当に全然、正直羨ましいと思ったことも一度もなかったのだが、最近ぼんやりと「上手く言語化できない劣等感のような感情」を抱くようになった。

人種国籍働いている働いていないを問わず知人友人たちを見ていると、お子さんの成長を通しご自身もどんどん成長されているよう見える人が多い。一方、自分はすごく停滞、停滞ならまだしも緩やかな曲線で劣化しているように感じ、(これ言うと絶対怒り出す人いるんだろうけど、あくまでわたし自分自身の感情の話なので)生物としての劣等感というか寂しさというか、焦り、または、羨み憧れ、逆に、妬み嫉みなどの上手く言語化できる簡単なものでは無い感情が生まれた。
たしか20代の終わりにも似たような感覚を覚えた。20代にしがみついているような感じと、一般的に言ってもう若くないことへの畏れのような不思議な感情。いざ30代になると実は女性の30代は心身ともに最高の世代で目の前の霧がさっと晴れたのだが、残念ながら今回はそうは行かないと予想している。当たり前だ。では、どうやってこの「上手く言語化できない劣等感のような感情」とつきあうか。

わたしの場合は自分と徹底的に向き合うことだった。というか今できることは他になかった。「この一年はできるだけ淡々と過ごすことだけを心がけている」のはこれが理由で、親友も自分ライバルも自分。比較対象もどこかの段階の自分。ありのままの自分を受け入れ、めいいっぱい自分を褒め、めいいっぱい自分自身を鼓舞し、振り返って羨み憧れるのも自分。目標は今日よりちょっと上質な明日の自分。ちょっとでいい。でも明日は今日より上質な自分でありたい。

今日より明日は、自分をもっと好きでありたい。

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そういえば、イヌが高齢になってある段階で、過去高齢のイヌを飼う人から聞いたこと、今まで蓄えてきた知識、Googleから得る知識をすべて使い果たしてしまった。
もうここからは自分ですべて模索していくしか無いんだと覚悟を決めて襟を正した。
もしあのときまだ知識が残っていたら、振り返った時きっと誰かや何かのせいにして、いつまでもくよくよとしてしまっていたはず。

今、まさにそれに似た心境で、「歳を重ねる」ということとつきあおうとしている。